高校教員から大学院へ。平和学を学び直す?博士前期課程?松岡由美子さんインタビュー
外大生インタビュー

職務経験のある大学院生へのインタビューを行う、シリーズ「もう一度、大学へ?大学院で学び直す?」。第2弾にご協力いただいたのは、2025年3月に博士前期課程を修了された松岡 由美子(まつおか?ゆみこ)さん。
松岡さんは高校教師として働きながら、自己啓発等休業制度を利用して本学の博士前期課程に入学し、ルワンダでの留学?調査も経験されました。修了した現在は、高校教師として再び教壇に立っています。これまでのご経験や社会人入学のハードルについて、お話を伺いました。
取材担当
大学院総合国際学研究科博士前期課程2年 星野 花奈(広報マネジメント?オフィス 学生広報スタッフ?学生ライター)
——本日はよろしくお願いします。早速ですが、まずは松岡さんのご経歴から伺ってもよろしいでしょうか。
よろしくお願いします。まず学部は、私立大学の文学部史学地理学科の西洋史学専攻でした。そこで「地理歴史」と「公民」の教員免許を取りました。そのあとすぐに大学院に進学したかったのですが、家庭の経済事情がそれを許さなかったため一回就職をしようと思い、臨時採用の教員として働き始めました。
当時はいわゆる「就職氷河期」だったため、臨時教諭の仕事すら首都圏でありつくことは至難の業でした。偶然、長崎県の臨時教諭の仕事を得ることができたので、縁もゆかりもない長崎県で教員として仕事を始めました。
長崎の校務分掌(学校内における業務分担のこと)には「平和学習」があり、その担当になりました。長崎出身ではないので腰が引けましたが、当時の管理職から「勉強してください」と言われ、勉強を始めました。長崎では12年間教員をやりましたが、その間ずっと「平和学習」に携わることになりました。そこで被爆者の方々や、生徒たち、平和の記事を書き続けた新聞記者との出会いなどがある中で、大きな疑問を持つようになりました。そのきっかけは生徒の言葉でした。ある日、生徒から「平和学習をもうしたくない」という感想をもらったのです。
長崎では、原爆が投下された8月9日が夏休み中でも登校日です。11時2分が投下の時間なので、それに合わせて午前中はどの学校も企画を立て、平和学習をします。投下された時間になると、特に長崎市内は教会が多いので、一斉に教会の鐘が鳴ります。町中がシーンと静まり返り、道を歩いている人も止まって黙祷をするという、厳かで独特の瞬間があります。長崎の人たちの努力によって、上の世代から下の世代に「平和とは何か」「原爆の被害はどのようなものなのか」といったことが語り継がれています。
そうした地域で育った高校生が、「もう平和学習はしたくない」と言ったのです。その言葉の重みはとても大きくて。「小学生の時から10年余り平和学習をやってきて、毎年8月9日には平和を祈っている。だけど、今日も世界のどこかで戦争をやっているでしょ」と言われたのです。当時はちょうどイラク戦争が行われていた時期でもあって、生徒から「虚しい」「本当にこんなことをして意味があるのか」「疲れた」と言われたのです。その言葉を聞いて、「平和学習を変えなくてはいけない」と思いました。これは「日本の若者たちに、どのように平和を作るための行動に繋がる平和学習をするのか」ということを、私自身が問いかけられたということです。ただ、急にどうすればいいかも分からないので、その問いを抱えながら仕事をすることになりました。
そして東日本大震災をきっかけに、地元の埼玉県に戻ってきました。埼玉県で採用され、最初は夢中で仕事をしていました。ただ頭の中では、長崎での問いがずっとモヤモヤしていました。
——そうだったんですね。大学院を受験しようというのは、いつぐらいから考えていたんですか?
東京外大を受けようと思ったのは、入学する2年くらい前でした。大学院の受験にあたっては、先ほどお話ししたような「平和学」が1つのキーワードになりました。また、私の卒論のテーマは「フランス第三共和政下における植民地政策」で、特にフランスの植民地の中でも、南太平洋のニューカレドニアの植民地政策について書きました。子どもの時から、植民者の強者の歴史よりも、植民地にされた側の痛みや苦しみに共感する部分がありました。また、ニューカレドニアの独立運動をしようとした人々を調べていく中で、現在まで続く問題にも強い関心を持つようになりました。こうした関心から「平和学」を考えた時に、「植民地にされた側の立場」という視点が加わりました。
また、「性暴力」というキーワードもこれらに加わりました。私自身、長崎にいるときに犯罪の被害に遭い、急死に一生を得る経験をしました。真っ暗なトンネルの中を手探りで探るような苦しい時期もあったのですが、素晴らしい医師との出会いや、親友たちの助けがあり、なんとか日常生活を取り戻す、ということがありました。そこで「性暴力被害者の支援」も1つの大きなテーマになりました。
こうした考えが頭の中でモヤモヤしていたのですが、これらの考えをアカデミックに整理したいと思い、仕事の合間を縫って社会人向けのイブニングスクールを受講するようになりました。学びながら自分の興味関心を探る、そして20年以上も離れたアカデミックでの学びが可能かを探る、というような形でした。学ぶと欲が出てきて、大学院への夢が再び湧き上がってきました。
しかし、大学院で研究するということがどういうことなのか何も分かっていなかったので、試しに科目等履修生(特定の科目のみを履修する学生のこと)として大学院で学び始めました。埼玉県で最初に勤めた高校は土曜日にも授業があり、その分の代休が取れました。その代休を利用して、研究計画を立てることを目標に複数の大学院で科目等履修生として2年間学びました。そこでちょっと自信が出てきて、やればやるほど「時間をかけて集中して研究してみたい」という欲が出てきました。
研究するにあたって時代や地域を悩んでいたときに、紛争地域では赤ちゃんの年齢から性暴力の被害に遭っている人々がいると知りました。また、研究するにあたり言語的な問題もありました。学部時代に学んでいたフランス語をすっかり忘れてしまっていたのです。フランス語を取り戻すよりも英語の方が比較的マシだったので「英語で研究ができる紛争地域」となると、アフリカ地域が多かったのです。
あとは、まるで「神の見えざる手[1]」で導かれるようにルワンダに導かれました。偶然ルワンダのスタディツアーがあるという情報を得て、飛びつきました。ルワンダについて何も知らない状態で、10日間のスタディツアーに参加しました。日本に帰国後、ルワンダの研究者について調べていく中で、本学の武内進一先生を知りました。武内先生のご著書を読んで、「武内先生のもとで研究したい!」と思うようになりました。そこで無謀なのは百も承知で、ドキドキしながら「春学期だけ科目等履修生として受講させてほしい」と、武内先生に直接メールをしました。そうしましたら「英語の授業でも大丈夫でしたらどうぞ」というありがたいお返事をいただきまして、飛び込んでみたのです。「清水の舞台から飛び降りる」とよく言いますが、そんな感じでした。
そして飛び降りた瞬間、「とんでもないものに飛び込んでしまった!」と気づいたのです。火曜日の午後が武内先生の授業だったのですが、午前中まで目一杯仕事をし、急いで電車に乗って、講読で使う英語のテキストを必死になって読みながら、東京外大に向かうようになりました。英語の専門書を読んでレジュメを切り、パワポを作って発表する。すべてが初めての経験で、とても苦労しました。ですが、同じ教室でアフリカ諸国からの留学生と一緒に学ぶことができ、彼らとのやりとりも含めて、アカデミックな世界での学びの楽しさに魅了されました。そうして春学期が終わる頃には、東京外大の受験を決めていました。その直後、世界でパンデミックが始まりました。キャンパスに通えるようになるまで待ちながら休業するタイミングを図り、結婚したばかりの夫とも話し合い、機が熟するのを勉強を続けながら2年間待ちました。そしてようやく念願叶い、2021年度に博士前期課程に入学しました。
[1] アダム?スミスの言葉。本来の意味は経済発展の説明に使われた。

教え子の生徒さんと同じ日に入学式。教師冥利に尽きます。
——次に、修士論文のテーマについてお聞きしてもよろしいでしょうか。
論文テーマは、「ルワンダにおける性暴力被害者支援-国内NGOから得た課題-」でした。最初はワンストップセンターの研究をしたかったのですが、留学記[2]にも書いたように、色々と制約があり、渡航した直後に断念しました。そして、アクセスができた国内NGOを訪問する形での研究になりました。
[2] 松岡さんのルワンダ留学記は、本学アフリカ地域専攻のHPにて公開されています。「50代からのルワンダ留学記?ルワンダで調査するとは?」
——博士前期課程に入学しようと思ったきっかけというのは、先ほどお話しいただいたご経歴の一連の流れという感じだったのでしょうか。
そうですね。ただ、今回の企画の大きなテーマの一つが「学び直し」だと思うのですけれども、この「学び直し」という言葉自体に私自身は違和感があります。理由は、どんな仕事でも学び続けないと仕事を継続できないと思うからです。特に教員という仕事は、インプットしないとアウトプットもできない仕事だと実感しています。私の理解だと「学び直し」は政府が使うようになって広まった言葉だと思いますが、これは社会学者ライト?ミルズが定義した「動機の語彙[3]」の一つだと思っています。
この「学び直し」を、「学びや研究だけを、年単位のまとまった期間で行う」と自分なりに定義すると、私自身はこの「学び直し」をずっとしたいと思っていました。ただ、それが優先順位の上にはなかなか上がらなかったのです。私の場合は特に犯罪被害に遭ってしまいPTSD[4]になっていたので、治療が最優先でした。さらに様々な準備や制度を使う上での条件をクリアする必要がありました。私は仕事を辞めてではなくて、人事院が定めた自己啓発等休業制度を使って大学院に入学したかったので、制度を使うための条件がありました。他にも金銭的な準備、自分自身の語学力の準備が必要でした。
[3] アメリカの社会学者C?ライト?ミルズが提唱した用語。動機は個人の「内部」に存在しているのではなく、「社会的行為者によってその行動の解釈をおしすすめる条件」(p.345)であるとするもの。(参考:ライト?ミルズ、『権力?政治?民衆』、青井和夫?本間康平訳、みすず書房、1971年、pp.344-355)
[4] 心的外傷後ストレス障害(Post Traumatic Stress Disorder)のこと。
——「学び直し」は、やはり括弧が必要な言葉ですね。そうして大学院に入学してみて、実際どうでしたか?
最初の博士前期課程1年は、本当に大変でした。あれを乗り越えられたので、修了できたのだと思います。大変なことは大きく分けて3つありました。
1つ目は、私が学部生をしていた1990年代と比べて、技術的なシステムの変化があったことです。例えば、履修登録や学務連絡なども、全部オンラインで行われますよね。オンラインの授業では、パソコンで授業を受けながら、スマホでアプリ操作をしなければいけないこともあったりして、分からないことだらけでした。そういう時は、ゼミの友人たちにかなり助けられました。ただ、そういった経験が、今では仕事で役に立ったりしています。
2つ目は、課題の多さです。学部から東京外大の大学院に進学した人は慣れているのかもしれませんが、私は外部から入学してきた友人と支え合いながら頑張りました。1日に課題の締め切りが重なった日は、本当にギリギリの状態でした。それでもなんとかやり切るというのが研究者になるための一つの洗礼だったのではないかと、今振り返って思います。そこまで鍛えてくださるというのが、東京外大の良さだと思います。
3つ目は、修士論文を仕上げるにあたっての大変さでした。よく山登りに例えられますけれど、まさにそうだったと思います。最初は色々な新しい景色を見ることができ楽しかったのですけれど、やっぱり頂上の直前が一番大変でした。実は高校で山岳部の顧問をしていて、生徒と一緒に山に登っていたのですが、頂上の手前が一番の急斜面のことが多く、「頂上は見えているのに、まだ頂上に到着しないきつさ」という経験を現実でしていました。実際に修士論文で書いたときもその通りで、それが大変でしたね。

ステイ先のおばあちゃんとお母さんと。おばあちゃんの話す民話も貴重な研究に。
——私自身も経験しましたが、博士前期課程1年は本当に大変ですよね。大変だったことのほかに、楽しかったことはありましたか?
こうした苦労も楽しみの一つでしたけれど、やっぱり楽しさといえば「学ぶ楽しさ」でした。仕事を忘れて、どっぷりと学びと研究の楽しさを味わい尽くせました。あとは、ルワンダに留学できたことですね。そこでの生活そのものが楽しくて、地元の人たちと日常生活を共にしたかけがえのない日々でした。
——次に、今後どんなことをしていきたいか、将来のヴィジョン等があればお聞かせください。
大きく分けて2つのことをしていきたいと考えています。
1つは、高校での仕事の中でのことです。高校でも、これまでの経験を活かしたいと思っています。具体的に言うと、今年の6月には東京外大で学んでいるアフリカ諸国からの留学生に私の「歴史総合」の授業へ参加していただき、一緒にワークショップをする予定です。実は私の勤務校でも外国にルーツを持っている高校生がかなりいて、さまざまなルーツを持った生徒がともに学んでいます。ただ、その割にはあまり価値観が多様化していないことに気づきまして。加えて、教員にも生徒にもアフリカ諸国に対するステレオタイプ的なイメージがあるので、ともに平和を作っていくという視点で留学生から学んで欲しいと思ったのです。留学生の方々も、大学の外に出て地元の高校生と接する機会はなかなかないですし、高校生たちとフランクに時間を共有してもらいたいと思いました。
高校内でやりたいもう1つのことは、交換プログラムの実現です。ルワンダに留学していた時に何度か訪問したセカンダリースクールがありまして、その学校の教頭先生と生徒たちを日本にお呼びして、ホームステイをしてもらったり、一緒の教室で学んだり、広島や長崎に訪問してもらったりすることを考えています。それを終えたら、今度は私が生徒たちを連れてルワンダを訪問し、生徒たちにルワンダの学校を経験してもらうというエクスチェンジの(交換的な)交流を始めたいと考えています。エクスチェンジ?プログラムを提供している日本の高校は多いですが、相手国はほとんど先進国に限定されています。先進国に行くよりは、なかなか自分では行けないところで、なおかつ英語が使えて、そして過去から学ぶという面を考えても、ルワンダはとても良い場所なのではないかと考えました。
私自身がルワンダにいた時に、セカンダリースクールで日本史の授業をさせてもらったのですが、「ここに自分の生徒を連れてきたい」と強く思いました。高校生同士の「素敵な化学変化」が起こるんじゃないかと。このエクスチェンジ交流事業の大きなハードルは金銭面なので、実現できるように工夫しながら努力していきたいと思います。

長崎における原爆被害についての授業です。楽しくて夢中でした。
高校の外側では、ブックレットの出版をしたいと考えています。これまで「ルワンダのことをプレゼンして欲しい」というありがたい機会をいただくことがあったのですが、毎回、ルワンダの概要から話をスタートしてきました。そこでふと、ルワンダの情報を得ることができる日本語の専門書はありますが、中高生や一般の方が読めるような本がないことに気が付きました。そこで「なければ作っちゃおう」と思い、いわゆるブックレットという形で、副教材としても使えるようなものを作りたいと考えています。知り合いの出版社に相談して、少しずつ始めています。もちろん私の知識だけで書くのは不安しかないので、教えていただいた先生方に監修や相談をさせていただきながら、正確な内容のものを作りたいと考えています。
あとは、私と夫のこれからの人生ヴィジョンを考えて、もう少し地元の人たちと関わりを増やすことが、これからの生き甲斐になるのではないかと思っています。例えばですけど、公民館などでルワンダについての講座を開くなど、いわゆる「生涯学習」のお手伝いをできればいいなと考えています。私自身もそういうものに参加してきたので、今度は自分が発信できたらなと思っています。講座や交流を通して、少しでもルワンダに興味関心を持ってもらえたらなと考えています。
大学院にいく前は、自分の自己実現の場所がプライベートと仕事の空間しかありませんでした。しかし、大学院にいった後は、それらに加えて「仕事以外での空間」が増えました。それが本当に大きな成果の一つでした。
——とても素敵な取り組みですね。中高生にとっても、視野を広げる機会になると思います。最後になりますが、本学の学生や、広く社会に伝えたいことがあれば、お聞かせください。
まずは本学の学生さんに向けてです。本学には社会人入学で入ってくる学生が比較的少ないですが、社会人を経験した周りの人からも、色々な学びを得て欲しいなと思います。さらに、本学の学生さんは「あそび」が少ない、もしくはほぼ無いと感じています。この「あそび」は良く車のハンドルに例えられます。車のハンドルは、車が停止しているときも、握って動かすと少し動くいわゆる「あそび」があるように敢えて設計されています。この「あそび」がないと、ハンドルは走行時やギアの切り替え時にうまく動作しません。つまり「あそび」があるからこそ、車は正常に動作する。人間も同様ではないかと思います。本学の学生さんは、皆さん非常に優秀です。これまでの人生で挫折した経験のある方は少ない印象を持っています。その優秀な学生さんたちだからこそ、最短で目標にたどり着こうと考える傾向があると、接していて感じています。最短で目標にたどり着くための努力は素晴らしいことですが、一方で、もうちょっと寄り道のような「あそび」があってもいいのではないかな?とも思います。好きなことを寝食も忘れて極めるような寄り道や、まとまった時間を旅に費やす寄り道など、無駄と見えることも、実は大きな経験値となって自分の糧になることが多々あります。そのような「あそび」は、窮地に立たされた時に実は大いに役に立つと私は思います。

お別れの時。
広く社会に伝えたいこととしては、社会人が大学に入って学ぶときの大きな懸念材料には経済的な問題と制度的な問題があり、これに対して改善を求めたいということです。経済的なことに関して言えば、国が支援して欲しいということです。具体的には、私が利用した制度は、無給ですが社会保障費は支払い続けなくてはいけないので経済的に相当額のまとまった資金を事前に準備しないと、制度を利用できません。国が社会人の「学び直し」を謳うのであるなら、具体的な経済的支援を策定しないと、「学び直し」をする人は増えないでしょう。
さらに、自治体に要求したいことがあります。私の利用した自己啓発等休業制度では、復職後俸給の復職時調整が認められており、「大学等における修学のための休業期間(職員としての職務に特に有用であると認められるものに限る。)100分の100以下。上記以外の修学のための休業期間100分の50以下[5]」と規定されています。この「職務に特に有用か否か」は所属自治体が判断します。私は判断の基準の公開を、所属している教育委員会に文書で求めましたが、回答無しでした。自治体は、人事査定に当たることをブラックボックス化しています。このように、制度を利用した結果が人事査定で評価されないのであれば、制度を利用する人間が少なくなるのは当然のことです。
最後に、このような「学び直し」を目的とする長期研修を実現するには、「職場の誰もがその権利を認め、研修に肯定的であること」が必要不可欠です。オーストラリアの学校は、長期研修を取得する同僚を当たり前のように送り出し、復職した教員は「次はあなたの番よ」と送り出すと聞きます。日本でもそのようになって欲しいと、現在職場で声をかけるようにしています。日本の職場も変わって欲しいと思っています。
[5] 人事院、自己啓発等休業、「職務に復帰した時の給与」より。
【参考資料】
- ライト?ミルズ、『権力?政治?民衆』、青井和夫?本間康平訳、みすず書房、1971年
- 人事院、自己啓発等休業制度、https://www.jinji.go.jp/seisaku/kinmu/jikokeihatu.html(最終アクセス日:2025年6月5日)
- 文部科学省、大学院等修学休業状況:万博体育官网app4年度調査、https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyuugyou/20230117-mxt_kouhou02-1.pdf(最終アクセス日:2025年6月5日)